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平井寺文化財散策

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  昭和30年に完成した、平井寺簡易水道の上から2番目の、溜枡。 中は水がたまると、上の方に出口が有り、次の桝へ。 一番下に有るのが消毒用の桝。同じ桝が並んでいて、 2重に消毒をされ、村へ配水をされました。 次回は5月半ば。昭和26年に硫黄を採掘した場所を見に行きます。

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  明治の初頃に、副戸長(現在の東塩田連合副自治会長)を務めた。林東馬の石碑。 東馬焼も彼が始めた事業です。昔の内村へ通ずる道路の脇に立っています。

平井寺文化財散策

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 昨夜の編集会議において、 明治三年、古川神社の屋根の修復をした時の、棟板の下書きが見つかりました。 この後、大きな棟板に書いて取り付けたものと思われます。 次の修復は昭和三年。 去年、屋根裏を見た時に、昭和の棟板が取り付いていました。

平井寺文化財散策

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平井寺東馬焼の釜跡。長さ12M位の登り釜です。 昭和の終わり頃、発掘調査が行われました。  割れたカメ等の破片が転がっています。

平井寺文化財散策

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木曾義仲の狐の湯。湯船後は、大正時代に旅籠がありました。 源泉が出てきています。 お稲荷様を祀っています。そばにはキツネが住んでいます。  

平井寺文化財散策

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  柵のように積んだ石垣。 昔、馬を飼っていた場所の様です。この辺当たりの地名が牧場に関する名前が多くあります。(駒形・駒形下・飼馬口・馬除など) この先、上に行くと鳥居の後が有ります。

平井寺文化財散策

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 昔の牧場の柵ではないかといわれている所。古川神社南側。 広い場所ですが坂なので所々、石垣が積まれています。 この様な石垣が何か所も有ります。

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  塩田平文化財保護協会により案内板が設置されました。 長年の風月により書いてある文字が見えません。

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 平井寺の義民、林徳左衛門。 延宝三年の大飢饉の時、庄屋だった徳左衛門は、一人で窮状を訴えました。  上田藩の収納米が六六、八一七表のところ二二、000表も減じた「この飢饉のため農民はのびるをとり 塩に和し、木の芽をつみ草の根を堀 、 或いは焼酎のかすをあら慷にてこし、 団子に練りて一時をしのがんとせしに、その毒にあたりて膨張し死せるもの道路に充満す」という有様であった。上田藩はこの飢饉に際しても年貢をなお加増して、米にして四斗五升俵を収納せんとしたため、徳左衛門は百姓の苦しみを救わんとして、三斗八升を一俵にせんと、藩強訴した。 その罪により延宝三年十二月二十六日死刑に処せられたが、その翌年からは、徳左衛門強訴した、 三斗八升を一俵として、藩に納めるようになった 。  平井寺村では徳左衛門の徳をしのび、平井寺山に自然石でその碑を建立した。そして「林徳扇大神」の幟をたてて、その霊をまつった。